2020年3月2日月曜日

連載記事 教員対談 臨床哲学をあらためて問う 2

はじめに


1995年に倫理学研究者を中心に「臨床哲学」が提唱され、1998年には大阪大学大学院に「臨床哲学」が誕生しました。それから20年以上が経過し、激動の大学改革のなかで、研究分野としての「臨床哲学」のミッションがあらためて問われる時期にきています。これに関連して、これから数回に渡って教員による対談を発信していきます。

◆臨床哲学研究室・教員対談
第2回臨床哲学研究室教員対談(2019926日(木)堀江研究室にて)
対談者:堀江 剛・小西真理子
聞き手・編集:ほんま なほ

規範を外れる生と向きあう 

ほんま:臨床哲学をめぐる対談シリーズの第二回目ということで、引き続き、堀江さんと小西さんにお話を伺いたいと思います。前回は、研究と現場をどう結び付けるかというところのお話を聞きましたが、今回は具体的にどのように現場に関わって、どんなことを見てどんなことを考えたかということを話してもらえますか。小西さんは夏休みにドイツのベルリンに行かれたのですよね。

小西:はい、私がベルリンに行ったのは、BDSMの調査をするためでした。私が研究する共依存の問題を考えるにあたって、支配と服従にかんして「別の語り」を提示するBDSMは避けることのできないテーマです。今回はベルリンでBDSM研究をしている友人の日本帰国が迫っていたこともあり、ベルリンで本格的な調査ができるのはこの機会しかないと思って行ってきました。
(※BDSM: B&DBondage & Discipline:拘束と調教)、D&SDomination & Submission:支配と服従)、S&MSadism & Masochism:加虐症と被虐症)との複合語)

ほんま: 共依存研究がBDSMとどのようにつながっているのですか。

小西:共依存が語られるとき、避けて通れないのが支配や暴力をめぐる問題です。支配や暴力にかんしては、「こういう暴力は正しい暴力だ」ということはほとんど語られないと思います。しかし、BDSMの現場を訪れると、いかに暴力的・支配的な状況を生み出すか、他者を無力(helpless)な状態にするかということに価値が見出されていることが分かります。その価値を徹底的に追及することによって具現化された光景が、私の目の前に広がっていました。

ほんま:おっしゃっているのは、たとえば暴力はいけないとか、支配がとにかく悪だっていう規範があるけれど、その現場では、支配や暴力というものが、おそらくそういうふうに語られる枠組みとは全然違う仕方でなされている実践があって、そこに何か研究のヒントがあるのではないかということでしょうか。

小西:私も暴力や支配って聞くと、即座に拒否反応が出る傾向にあります。でも、BDSMについて語る友人の話を聴いていると、そこにいる人たちが、私が見えているのものとは全然違う世界に生きていることが徐々に伝わってくるようになったんです。加えて、共依存の問題でも、BDSMとつながっているとしか思えないような事態があって、共依存を論じるにあたってBDSMがないもののように語るのは大変不誠実だと考えるようにもなりました。

ほんま:このテーマにかんしてはこれから切り開いていかれるということだと思いますが、それは本を読んで考えるだけでは難しいんでしょうか。

小西:今回、ベルリンで調査する直前にも、BDSMに関する論文をいくつか読んだんですけれど、調査直後に同じ論文をもう一度読むと、そこから見えてくるものというか、伝わってくるものの臨場感がまったく異なるものになっていました。いろんな人が話していたことや、現場で見たことと文章がリンクするし、場合によっては両者の差異も明らかになります。今回お話しをうかがったSMスタジオの女王様は、SMを知って、それをとことん追求できる場所を作るという夢をもって、看護師という職から転職してまで夢を実現した方でした。創設者の一人の方とスタジオをめぐることで、こういう考えを持った人が作り上げた場所がこういう場所なんだっていうこともすごく伝わってきました。その場所は、彼女たちの思想が体現されている場所だったんです。

ほんま:小西さんが考えているのは、世の中で浸透している慣習的な倫理だけではなく、それから逸れている人たちのなかにもある種の倫理があるということだと思いますが、両者の関係はどうなっていますか。

小西:両者は違うものだと思いますが、一部重なっていますね。たとえばBDSMにおいて、慣習的な世界では暴力や支配はダメ、BDSMの世界ではそれが肯定的に捉えられるという点においては違います。しかし、BDSMの世界では、プレイする上での合意形成がとても重要なものであると語られます。場合によっては危険をともなうようなものもあって、それをいかに技術や感性、環境を整備することで安全に行うかということが詳細に検討されています。あと、否定語が言葉通りの意味をなさないので、危険や嫌悪を感じたときにプレイを中断するためのセイフワードがもうけられています。これらの試みにはかなり「正常」な規範が働いていると思います。でも、BDSM実践者のなかには、そういうものにおさまらない人たちもいて、そういう人たちは、実践者のなかでもより「異常」な領域を形成していくわけです。今回私がおとずれたスタジオは、すごく暴力的で支配的な場所だったけれど、そういった意味では「正常」さを体現した場所でもありました。

ほんま:意地悪な質問をすると、単にSMおもしろそうとかいう興味本位で研究者が出かけることと、そうではない研究とどう違うと思いますか。

小西:そこはすごく難しいところです。私みたいなSMクラブで働いた経験があるわけでもない人が突然訪れることを嫌がる人は多いと思います。実際に、博士論文を書いていた2013年にはこのテーマに興味を持っていたけれど、当時その場所に研究者として行くことにはとても抵抗がありました。そこから数年が経過して、問題について考えるなかで、一般的なSMに対する偏見というものがよく分からなくなってきたと感じるようになったとき、条件付きにはなるけれど、現場を訪ねてもいいかなと思うようになりました。ただ、これはすごく私の主観に依拠することなので難しいですね。今回は実践者の方や現場とのつながりをすでにもっている友人に同行してもらっていたことがとても大きかったです。インタビューするにあたっては自分の立場は明確に相手に伝えるべきだし、インタビュー最中に不快感をもたれていないかということは常に気を配らないといけないし、自分がそこにお邪魔させてもらっているという意識を手放してはいけないし、インタビュー前やインタビューの短時間において少しでも関係性を形成するということをすごく意識します。でも、それは最低限のことのように思います。

ほんま:臨床というと「苦しみの場所」とどうかかわるかというようなことが議論されてきたわけです。でも、今までの話を聞いていると、そういうお助けイメージではなくて、ひとつは「このことを考えざるを得なくなった」みたいな思考の必然みたいなものがあるということ、もうひとつは、別にSM愛好者を評価してあげたいとか、この人たちを社会から排除するものをなんとかしようとか、そういうところが動機になっていないところがおもしろいなと思いました。それをあえて臨床というものと結びつけるとしたら、それはどういうアプローチなんでしょうか。

小西:かわいそうな人を私が助けてあげるみたいな動機に対しては、できるだけ距離を置きたいと思っているんですけれど、人を助けたいっていう気持ちがまったくないわけではなくて、むしろ強くなるようなこともあります。それはきっと「こういう生き方ってないよね」みたいな発言を聞いたときにそういう気持ちになるんだと思います。規範と外れる生というものがあるとしたら、そこにはそこの規範や倫理があるのに、それを抹殺しようとしたり、攻撃したりするような言動に対しては、何かしたいという気持ちになります。


病院での看護を通して仕事を考える

ほんま:続いて堀江さんにお伺いしたいのですが、堀江さんにとって臨床的な場所ってどういうところですか。

堀江:これも偶然からですけれど、医療関係の特に病院という場所で仕事をしている様々な人と議論したり、一緒に考えたりする機会が多かったので、臨床といえば、いわゆる医療の現場が想定されています。でも、お医者さんとはあまり付き合いがなくて、看護師さんが多いです。病院の中のいろんな問題を考えるっていうのが、さしあたって僕にとっての「臨床」です。ただし、ここで僕自身が大学院生になる前にサラリーマンを経験したというのが大きくて、どこかの組織で仕事をしているということを「臨床」だと受け取っているのだと思います。

ほんま:それがたまたま看護職だったということですか。

堀江:そうです。臨床哲学研究室に私が大学院生として入ったときに、本当にたまたま看護師さんが多くて、そういう人たちと話し合う、聴く、自分の考えを述べるということを繰り返したなかで、考えることが多かったということです。私は「仕事」という視点で、看護師の人たちが考えていることに反応して刺激を受けているのだと思います。たとえば、ある看護師さんが日々の病棟の看護で何を考えてやっているかという話になったとき、基本的にはいかに時間を管理して多くの患者さんへのケアや、その他にもやらなければならないことをやっているのか、どうやって上手く患者さんとの話をきり上げて次の仕事にいくかっていうのを考えながら仕事しています。これは看護の仕事という意味で、病院でたくさんの人をケアしているなかで、もっとも重要な発想なんだろうなと思いました。同時にだからといって、その看護師さんはすごくドライに患者さんを処理するように対応しているわけではなく、自分のモチベーションや自分の看護観っていうものを、日々の仕事の中でやっていきたいという価値観も持っています。それを実際とどう折り合いをつけて自分で組み立てているのかということ、この全体が看護という仕事なんだなと思いました。そこをいっしょに考えて、こんなふうにも考えることができるんじゃないかとか、こういう視点で見たら看護の仕事として哲学とつながるんじゃないのか、といった話ができるように思えて、楽しかったですね。

ほんま:それは看護研究だったら論文とかに結実するんですけれど、堀江さんのそういう関わりっていうものは誰にどういうものを与えるんですか。

堀江:単純なことは言えないんですが、多面的にはいろんなことができると感じます。ひとつは、その看護師さんたちといっしょに論文や実践報告を書いて研究成果として発表することができると思います。でも、それだけではなくて、実際に研修に僕が関わってお互いにアイディアを出し合う場を作ったことによって、少なくてもこれまでの看護の研修とか、何かスキルを磨くだけのものとは違う視点を得たという感想を聞くと嬉しいなと思います。その他には、患者さんやその家族も含めて、お互いに違う人たちをまぜて対話する場所を私が研究者として作ると、それぞれの立場からの新しい視点やヒントが見つかるというのがあります。

ほんま:私も精神科看護やがんの緩和ケアとかに関わっていて、私の場合は、どちらかというと患者さんと間接的に関わっているような感じがします。でも、堀江さんの話を聞いていると全然そうじゃなくって、病気とかではなくて看護師の働きというところに関与しようとしているところがおもしろかったんですけれど、それってどういう関心なんですか。患者さんが誰かということとは独立して、病院の働きというところを見ているんですか。

堀江:やはりサラリーマンの経験が大きいですね。大学を卒業して「仕事をする」ってどういうことなんだろうっていうのがあって、メーカーに入って働いたということが、僕の臨床哲学の原体験なのかもしれないです。僕自身はそれをサラリーマンやりながらはできませんでした。だから、臨床哲学に入って仕事の臨床っていうのをずっと考えていたんだと思います。

ほんま:堀江さんはもともとスピノザをやっていたわけですよね。今の話を聞いていても、全然善悪とは関係ないっていうところがおもしろいなって思いました。善悪とは関係ない、仕事という現場での人のやりくりしている生きざまに関心をもたれていると思うんですけど、善悪がないっていうことをポジティブに言いかえるとしたらそれはどういうふうになりますか。

堀江:僕が倫理学を考えるうえで、自分のなかでこれかなって思うのは、善悪は別にしてやらなければならないことがある、ということです。善悪は別にして、例えばマルクスが考えるように、こんな経済的な必然性が社会のなかには貫徹しているんだとか。要するに、現実的な社会関係の中で私たちが活動せざるをえないような場面があって、倫理というものはその上に乗っかっているだけのようなものだという信念があるような気がします。組織を考えると、実は組織のなかにある目標とか価値によって組織が動くっていうのはあるし、それに自ら人生そのものを投じるということもあります。だから善悪は必要ないっていうのではなく、何らかの形で善悪と別のところにある関係から、皮肉な形か積極的な形かで善悪というものが生じてくるのだと思っています。善悪というものがあるという立場からは距離を置いて考えたいです。

ほんま:今までご自身が働いてこられた延長線上に看護師さんたちの仕事があったんですね。自分の問題を、看護師さんを通して考えているんですか。

堀江:自分の問題かもしれません。学生とか若い時期にかけて、大学生のときに就職するか、大学院に進むかということとか、あるいは周りにいた左翼の活動家の友達とかと話していて、自分の活動が社会のなかで自分の選択としてどうできるんだろうかということを考えたときがありました。それ以来、自分は仕事をするけれど、仕事として割り切ってすると同時に、自分のやりたい趣味もする。そういう「切り分け」が仕事なのかって感じたのが最初なのかもしれません。それを誰もがやっているだろうということから、人は仕事ということで何を考え、他の人と関わりながら、他の人に合わせながら、他の人の命令に従いながら、何とか自分をやりくりしているというようなところを含めて、仕事と社会というものにずっと関心があったということです。

ほんま:最後にお二人に聞きたいのですが、お話しいただいたもののなかで、学生に伝授できるところがあるとしたら、何だと思いますか。

小西:まず、自分がそもそもなんでこんな問題を考えているんだろうっていう、自分のテーマと自分のつながりについては考えた方がいいと思います。当事者研究も含めて、研究全体のあらゆる当事者性と研究者自身が一致することはあり得ません。他者が単なる研究材料になりかねない危険と隣り合わせで、だからこそ、明記するかどうかは別にして、自分と他者たちとの関連性はしっかりと見なければならないと思います。もう一つは、何かを実行できる機会やチャンスというものは、いつでも存在するわけではないということです。今しかできないこともあるので、慎重さが求められると言ったことに対して逆説的なんですけれど、そういうときは、とにかく実行するということも重要だと思います。

ほんま:好きなだけ時間をかけれるわけではないということ、そして、たじろがないで現場に行くっていうことにすでに責任が伴うわけですね。それは人の生に関わるということなんだと思うんですけど、学問とか研究とかが人の生に関わるっていうのはどういうことなんだろうかってそこは私も考えたいところです。堀江さんはどうですか。

堀江:今の生に関わるというところでいえば、自分が考えたいなとか違和感があるなって思ったことは絶対手放すなということを学生には言いたいです。研究を続けようが、どこにいようが、自分がぜひこれははっきりさせたいなと思っていることは、2030年手放さないで自分の生に関わりながらやっていくのが、臨床哲学を考えることになるのではないでしょうか。長い目での自分の生き方とか考えたいことを手放さないことが、臨床と哲学を結ぶ一番の肝だろうと感じます。

ほんま:堀江さんも小西さんもそうでしたけれど、自分自身が一回社会に出て、大学院で勉強しなおすみたいなルートがこれからますます大事になってくると思うんですよね。堀江さんのようなお仕事っていうのは、社会人院生にとって長期的に必要なことなんでしょうね。ライフワークというか、その人の生に関わりつつ、それを考え続けるという機会を臨床哲学は提供してくれるかもしれないということですね。

堀江:ぜひ提供したいですね。

付記

諸事情により、この対談のブログ掲載がたいへん遅れてしまいました。
臨床哲学教員による対談は、今回の掲載をもって、一旦終了とします。

2020年1月21日火曜日

【中止】開催案内(2020年3月13日):臨床哲学セミナー「書くことと、考えること、行動すること」

※予定しておりました下記セミナーは、中止となりました。
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 来る3月13日に、臨床哲学セミナーとして、『ぼそぼそ声のフェミニズム』を上梓された栗田隆子さんをお招きし、「書くことと、考えること、行動すること」について考える会が開かれます。
 ご参加をご希望の方は、下記のメールアドレスに「参加希望の旨」と「参加される方のお名前」をお知らせ下さい。


臨床哲学セミナー「書くことと、考えること、行動すること」
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講師:栗田隆子さん
2020.3.13(金)14:00-16:30
@すてっぷ視聴覚室
要申込、定員30名
申込先:rinsho*let.osaka-u.ac.jp(*を@に変えて送信してください)
主催:大阪大学文学部臨床哲学研究室



2020年1月16日木曜日

イベント案内(2020年1月19日):<ケア>を考える会

イベント案内:<ケア>を考える会 (第127回)
日時:2020年1月19日(日)13:30-17:30
場所:京都市山科 山科駅より徒歩3-4分の民家(山添宅)(安朱保育園 東隣)


内容:
(1)読書対話
小西真理子著『共依存の倫理』(晃洋書房)
第6章「共依存の回復論」第1節(P.210239
発表・解説・コメント 小西真理子 さん (大阪大学・臨床哲学・講師)
(2)懇親会‥‥食べながら飲みながら語り合います(持ち込み歓迎)

会費:懇親会参加者のみ1000円。
どなたでも参加できます(初参加歓迎)。先着20名程度。
問い合わせ等:林道也まで:michi-care*outlook.jp (*を@に変更してください)
090-5366-1497

 今回のポイント
「共依存」は、他者との間で依存支配服従の関係が存在し、本人の「自己」が損なわれている状態である。とすれば「自己」の回復が図られなければならない。ところが、そんな簡単な問題ではない。人は他者に「依存」しなければ生きていけない存在なのだ。では、「自己」の実現と「依存」をどう考えるか。そこに「再帰性」という概念が関わってくる。さらに、「自己」をこえて、ある方向に導いていこうとするものが在るようだ。あぁ 難しい。でも、なにかワクワクする。これぞ、〈ケア〉を考える会だ。著者の小西さんが居てくれるのが頼もしく、うれしい。



2019年10月15日火曜日

セミナー「インクルージョンとBelonging」開催

さまざまな背景をもつひとたちがリサーチに参加するための
セミナーを開催します。
関心のある方はどなたでも参加できます。


セミナーとワークショップ「インクルージョンと’Belonging’」 

日時 2019年11月4日(月・祝)10:00 - 15:45
場穂 大阪大学文学部中庭会議室
共催 大阪大学文学研究科臨床哲学
参加無料 通訳あり
申込・問い合わせ naho[at]cscd.osaka-u.ac.jp(ほんま なほ)

「ソーシャル・インクルージョン」は、ヨーロッパを発祥とする政策概念として広く知られるようになってきました。
しかしこの言葉は多義的で曖昧であること、また就労による自立や雇用政策と結びつきやすいことから、
「BELONG」という概念が提起されています。
このセミナーには、知的障害のある人と一緒に行う調査研究(インクルーシブリサーチ) をとおして、
「BELONG」をキーワードに運動を展開するイギリスの当事者と研究者を迎えます。
知的障害に限らずさまざまな背景をもつ人たちのインクルージョンに向けて、
この概念を日本でどのように展開するか共に考えましょう。


10:00-10:15
イントロダクション:笠原千絵

10:15-10:45
Lecture
Liz Tilley & Jan Walmsley「ソーシャルインクルージョンとインクルーシブリサーチ」

10:45-11:00
BREAK

11:00-11:30
森口弘美/中西正繁「アドボカシーにつながるインクルーシブリサーチの試み」

11:30-12:00
ほんまなほ「語りあいの場をつくること、こえをあげることのむずかしさ」

12:00-13:00
Lunch

13:00-13:30
Liz Ellis「Kin & Kithに関する研究」

13:30-14:00
Sarah Ryan「’ Belonging’の概念、およびその背景にある文脈」

14:00-14:15
BREAK

14:15-15:15
ワークショップ(グループディスカッション)
・Belongの概念は、多様なフィールドでインクルージョンに向けた戦略にどうつながるか

15:15-15:45
全体共有


2019年10月1日火曜日

【イベント参加報告:<ケア>を考える会】

201998日(日)、第125回〈ケア〉を考える会に報告者として参加させていただきました。この会はいつも温かな雰囲気でとても居心地がいいです。また、対話の後には、(一部の方たちからはむしろこちらがメインと言われているような)懇親会が開催され、美味しい手作り料理や持ち寄りの日本酒が待っています。

〈ケア〉を考える会@京都は、2ヶ月に1回開催されるケア職の方たちが中心に集まる対話の場です。会の呼びかけをしてくださっているケアマネジャーの林道也さんは、臨床哲学とも長い間かかわってくださっている方です。以前、林さんは対話しているときや、何か本を読んだときにすぐに効果が発揮されるようなものではなくて、そこでなされた対話や言葉の意味が後々じわじわとしみてくるような、そういうものが好きだとおっしゃられたことがあり、私はそれに大変共感したことを覚えています。

今回は、私の単著『共依存の倫理』(晃洋書房)の第4章「共依存とフェミニズム」をもとに対話しました。本書は博士論文をもとにした学術書ですので、少し難解なところもあります。そこで対話に先立って、第4章の解説をさせていただき、対話にうつりました。

2019年9月18日水曜日

臨床哲学・哲学プラクティス国際セミナー&ワークショップ 報告

 2019730から81日までの3日間、韓国の国立慶北大学哲学科から教員・学生14名が来日し、臨床哲学・哲学プラクティスに関するセミナー&ワークショップを開催しました。2017年夏、同じく韓国の江原大学哲学科の人たちと大阪でセミナーが開催されましたが、それと同様の趣旨でのイベントです。韓国では「BKBrain Korea21plus」という人文系のための国家プログラムがあり、哲学系の大学院では韓国社会での問題に人文知を活用するために哲学相談・哲学治療・哲学対話といった研究・教育に対して助成金が交付されています。この二つの研究交流はいずれもこの助成金プログラムによるものです。
 今回、堀江剛(教授)は「哲学対話演習」として、慶北大学哲学科の大学院生7名を参加者とした1日半のソクラティク・ダイアローグ(SD)を行いました。事前にテーマを設定せず、イントロダクションでのSDの説明から、グループは「理想を望むこと」に関する問いを作り、模造紙に日本語・韓国語を併記する仕方で例の提示や答えの探求を行いました。当初、共通言語による対話/進行ができない中でどうなるかと心配していましたが、通訳の協力と「ゆっくりした対話の進行」を意識することで、いつも通りの「対話だけによる哲学的な探求」が実現できました。初めてSDを体験する参加者たちばかりでしたが、哲学科で学んでいることもあり、具体例に基づいて「哲学する」ことの意義と楽しさは伝わったかと感じます。
 2日目の午後からは、大阪大学臨床哲学研究室の教員による二つの講義・発表が行われました。
 ほんまなほ(准教授/兼任)は、「臨床哲学からフィロソフィ」と題する講演を行い、まず、日本で「臨床哲学」が提唱されて以降、第一(1995-)・第二(2005-)・第三世代(2015-)それぞれの課題と問題点を整理し、「名前をもった特定のだれかとして、別のだれかある特定の人物にかかわっていく」という鷲田清一による臨床の意味を引き受けつつも、これについて「無条件に世話をされた経験」「存在を贈りあうこと」「弱いものに従う自由」という抽象的解釈をとるのではなく、むしろ、ベル・フックスが強調するように、ひとがどんな境遇にあっても生き延びようとするひとのポジティヴなちからと創造性こそが、〈だれ〉と〈だれ〉を結びつけるのであり、そこからケアと対話がうまれるのだ、と説きました。そして、生きづらさを生きる〈だれ〉の声を聴くときに胸がうたれるのは、じぶんが、そのように生きてきたその〈だれ〉とは異なる生き方をしてきた、べつの〈だれ〉であることを思い知らされるからであり、この〈だれ〉と〈だれ〉が真に出会い、ともに生きる場が〈フィロソフィ〉であり、そこでは、知る、愛する、関係する、の実践が折り重なるのだ、と講演を括りました。
 小西真理子(講師)は、「臨床哲学」を知ることで得た視点に依拠して、これまで行ってきた「共依存研究」の原点に立ち返り、それが実際に出会った(複数の)特定の「あなた」と他でもない「わたし」の関係性からはじまったものであることの語りなおしを行いました。質疑応答を通じて小西は、「あなた」と「わたし」という二者関係に生じているのは、(問題あると認識されるものがそこに存在している場合においても)「あなた」の問題を取り除く方法の提示ではなく、実際に問題を生きている「あなた」がどのように語りかけてくるかに注視しつつ、その当人ではなく当人が生きにくい社会・規範について問い直すような視点だということが分かったと述べています。それは、韓国をはじめ諸外国で「Clinical Philosophy」が「治療哲学」と訳される・認識されるような視点とは異なるものであると理解できるでしょう。
 3日目には、大阪大学臨床哲学研究室の大学院生および慶北大学の教員・大学院から、7つの研究発表が行われました。そこでは、従来の(古典文献読解に基づく)哲学研究とは異なって「どうすれば哲学や哲学的思考を現実の問題にリンクできるか」という模索や試行がさまざまに示されました。また、(江原大学との共同セミナーと同じく)、韓国における「哲学治療」と日本(大阪大学)の「臨床哲学」との違いも感じられました。そこで、研究発表の最後に設けられた意見交換会で、私たちは両者のアプローチの違いを明確にするために、次のような問いを投げかけてみました。

    A:問題について、その解決(除去?)を考える
    B:問題を生きる人々の声を聴き、ともに考える
    両者の共通点・相違点・協力点はどこにあるのか。

 大阪大学側からは、Bについて「ケア」と結びつけた説明がなされたために、「ケア=感情や共感を重視する」という一面的な理解がもたれてしまい、ケアだけでは不十分ではないか、という意見も出されました。他方、ケアリングとは、理性や思考と対比されるものではなく、より実践的で包括的な関係の知であると、具体的な経験をもとに応答がなされました。上記の2つはいずれも重要な視点であり続けると思われますし、今後も議論を続ける必要があるでしょう。今回のセミナーでは、哲学と実践をめぐる問いが、国際的な(少なくとも日韓の)広がりの中で議論されうることを確認できたのではないでしょうか。
 最後に、三日間のセミナー・ワークショップで通訳を務めていただいた尹美羅さん、李アロムさん、金載勲さん(いずれも大阪大学文学研究科大学院留学生)に、感謝の意を表します。彼女ら・彼らの献身的な協力がなければ、この催しは成功しなかったでしょう。

-- 以下、プログラム内容 --

臨床哲学・哲学プラクティス 国際セミナー&ワークショップ
2019 International Seminar & workshop on Clinical Philosophy & Philosophical Practice

日時:2019730日〜81
会場:大阪大学全学教育推進機構実験棟1サイエンス・スタジオA
主催:大阪大学文学研究科臨床哲学研究室・国立慶北大学哲学科

プログラム/Program

n哲学対話演習Socratic Dialogue730日・31日午前)
                          進行役:堀江剛/Horie, Tsuyoshi(大阪大学教授)

n臨床哲学講演/Lectures for Clinical Philosophy731日午後)

14:00-15:30  臨床哲学からフィロソフィへ
                     講師:ほんまなほ/Homma, Naho(大阪大学准教)
16:30-18:00  はじまりの場所:日常で出会った「あなた」から「わたし」が始める臨床哲学
                     講師:小西真理子/Konishi, Mariko(大阪大学講師)

n研究発表/Research Presentation81日)

09:00-12:00  ①「合理的情緒行動治療」のアイロニーと「論理基盤治療」
                           キン・ジンテ/KIM, Jin-Tae(慶北大学研究教授)
         ②「ゼロ・トレランス型」教育についてのノート
               金和永/KIM, Hwa-young(大阪大学博士課程)
         ③ 哲学相談における「不和」の意味と必然性:「不和」を通じて自己になること
              ぺ・テジュ/Bae, Tae-ju(慶北大学博士課程単位修得)

     13:00-14:00   ④ ともにいること(インクルージョン)の成立とそれに伴うアートプロジェクト
                               の記述に基づく考察から
                                小泉朝未/Koizumi, Asami(大阪大学博士課程)
                           ⑤ 芸術作品の深層心理学的理解と美術治療:フロイトの芸術心理学を中心に
                                 ソ・ハンギョル/Seo, Han-Gyeol(慶北大学修士課程)
14:30-15:30   ⑥ 念(sati:心を守ること)に基づく瞑想実習の授業プログラム開発のための予
                             備的考察
                                イ・ウンジョン/LEE, Eun-Jung(慶北大学博士課程単位修得)
                           ⑦ ニーチェ哲学の治癒の力とその限界
                                 ソ・ジュンヒョク/SEO, Jun-Hyuk(慶北大学博士課程)

16:00-17:30   DiscussionMOU締結

18:00-            懇親会(COデザインセンター4424号室)

2019年9月12日木曜日

イベント開催報告:ギャンブル等依存問題セミナーin大阪

 630日(日)に大阪大学豊中キャンパスにて、「ギャンブル等依存問題セミナーin大阪:パチンコ・パチスロに依存する人の多様な背景と支援について」(主催:NPO法人ワンデーポート、共催:大阪大学大学院文学研究科臨床哲学・倫理学研究室)を開催しました。
 報告はこちらよりご覧ください。