2019年9月18日水曜日

臨床哲学・哲学プラクティス国際セミナー&ワークショップ 報告

 2019730から81日までの3日間、韓国の国立慶北大学哲学科から教員・学生14名が来日し、臨床哲学・哲学プラクティスに関するセミナー&ワークショップを開催しました。2017年夏、同じく韓国の江原大学哲学科の人たちと大阪でセミナーが開催されましたが、それと同様の趣旨でのイベントです。韓国では「BKBrain Korea21plus」という人文系のための国家プログラムがあり、哲学系の大学院では韓国社会での問題に人文知を活用するために哲学相談・哲学治療・哲学対話といった研究・教育に対して助成金が交付されています。この二つの研究交流はいずれもこの助成金プログラムによるものです。
 今回、堀江剛(教授)は「哲学対話演習」として、慶北大学哲学科の大学院生7名を参加者とした1日半のソクラティク・ダイアローグ(SD)を行いました。事前にテーマを設定せず、イントロダクションでのSDの説明から、グループは「理想を望むこと」に関する問いを作り、模造紙に日本語・韓国語を併記する仕方で例の提示や答えの探求を行いました。当初、共通言語による対話/進行ができない中でどうなるかと心配していましたが、通訳の協力と「ゆっくりした対話の進行」を意識することで、いつも通りの「対話だけによる哲学的な探求」が実現できました。初めてSDを体験する参加者たちばかりでしたが、哲学科で学んでいることもあり、具体例に基づいて「哲学する」ことの意義と楽しさは伝わったかと感じます。
 2日目の午後からは、大阪大学臨床哲学研究室の教員による二つの講義・発表が行われました。
 ほんまなほ(准教授/兼任)は、「臨床哲学からフィロソフィ」と題する講演を行い、まず、日本で「臨床哲学」が提唱されて以降、第一(1995-)・第二(2005-)・第三世代(2015-)それぞれの課題と問題点を整理し、「名前をもった特定のだれかとして、別のだれかある特定の人物にかかわっていく」という鷲田清一による臨床の意味を引き受けつつも、これについて「無条件に世話をされた経験」「存在を贈りあうこと」「弱いものに従う自由」という抽象的解釈をとるのではなく、むしろ、ベル・フックスが強調するように、ひとがどんな境遇にあっても生き延びようとするひとのポジティヴなちからと創造性こそが、〈だれ〉と〈だれ〉を結びつけるのであり、そこからケアと対話がうまれるのだ、と説きました。そして、生きづらさを生きる〈だれ〉の声を聴くときに胸がうたれるのは、じぶんが、そのように生きてきたその〈だれ〉とは異なる生き方をしてきた、べつの〈だれ〉であることを思い知らされるからであり、この〈だれ〉と〈だれ〉が真に出会い、ともに生きる場が〈フィロソフィ〉であり、そこでは、知る、愛する、関係する、の実践が折り重なるのだ、と講演を括りました。
 小西真理子(講師)は、「臨床哲学」を知ることで得た視点に依拠して、これまで行ってきた「共依存研究」の原点に立ち返り、それが実際に出会った(複数の)特定の「あなた」と他でもない「わたし」の関係性からはじまったものであることの語りなおしを行いました。質疑応答を通じて小西は、「あなた」と「わたし」という二者関係に生じているのは、(問題あると認識されるものがそこに存在している場合においても)「あなた」の問題を取り除く方法の提示ではなく、実際に問題を生きている「あなた」がどのように語りかけてくるかに注視しつつ、その当人ではなく当人が生きにくい社会・規範について問い直すような視点だということが分かったと述べています。それは、韓国をはじめ諸外国で「Clinical Philosophy」が「治療哲学」と訳される・認識されるような視点とは異なるものであると理解できるでしょう。
 3日目には、大阪大学臨床哲学研究室の大学院生および慶北大学の教員・大学院から、7つの研究発表が行われました。そこでは、従来の(古典文献読解に基づく)哲学研究とは異なって「どうすれば哲学や哲学的思考を現実の問題にリンクできるか」という模索や試行がさまざまに示されました。また、(江原大学との共同セミナーと同じく)、韓国における「哲学治療」と日本(大阪大学)の「臨床哲学」との違いも感じられました。そこで、研究発表の最後に設けられた意見交換会で、私たちは両者のアプローチの違いを明確にするために、次のような問いを投げかけてみました。

    A:問題について、その解決(除去?)を考える
    B:問題を生きる人々の声を聴き、ともに考える
    両者の共通点・相違点・協力点はどこにあるのか。

 大阪大学側からは、Bについて「ケア」と結びつけた説明がなされたために、「ケア=感情や共感を重視する」という一面的な理解がもたれてしまい、ケアだけでは不十分ではないか、という意見も出されました。他方、ケアリングとは、理性や思考と対比されるものではなく、より実践的で包括的な関係の知であると、具体的な経験をもとに応答がなされました。上記の2つはいずれも重要な視点であり続けると思われますし、今後も議論を続ける必要があるでしょう。今回のセミナーでは、哲学と実践をめぐる問いが、国際的な(少なくとも日韓の)広がりの中で議論されうることを確認できたのではないでしょうか。
 最後に、三日間のセミナー・ワークショップで通訳を務めていただいた尹美羅さん、李アロムさん、金載勲さん(いずれも大阪大学文学研究科大学院留学生)に、感謝の意を表します。彼女ら・彼らの献身的な協力がなければ、この催しは成功しなかったでしょう。

-- 以下、プログラム内容 --

臨床哲学・哲学プラクティス 国際セミナー&ワークショップ
2019 International Seminar & workshop on Clinical Philosophy & Philosophical Practice

日時:2019730日〜81
会場:大阪大学全学教育推進機構実験棟1サイエンス・スタジオA
主催:大阪大学文学研究科臨床哲学研究室・国立慶北大学哲学科

プログラム/Program

n哲学対話演習Socratic Dialogue730日・31日午前)
                          進行役:堀江剛/Horie, Tsuyoshi(大阪大学教授)

n臨床哲学講演/Lectures for Clinical Philosophy731日午後)

14:00-15:30  臨床哲学からフィロソフィへ
                     講師:ほんまなほ/Homma, Naho(大阪大学准教)
16:30-18:00  はじまりの場所:日常で出会った「あなた」から「わたし」が始める臨床哲学
                     講師:小西真理子/Konishi, Mariko(大阪大学講師)

n研究発表/Research Presentation81日)

09:00-12:00  ①「合理的情緒行動治療」のアイロニーと「論理基盤治療」
                           キン・ジンテ/KIM, Jin-Tae(慶北大学研究教授)
         ②「ゼロ・トレランス型」教育についてのノート
               金和永/KIM, Hwa-young(大阪大学博士課程)
         ③ 哲学相談における「不和」の意味と必然性:「不和」を通じて自己になること
              ぺ・テジュ/Bae, Tae-ju(慶北大学博士課程単位修得)

     13:00-14:00   ④ ともにいること(インクルージョン)の成立とそれに伴うアートプロジェクト
                               の記述に基づく考察から
                                小泉朝未/Koizumi, Asami(大阪大学博士課程)
                           ⑤ 芸術作品の深層心理学的理解と美術治療:フロイトの芸術心理学を中心に
                                 ソ・ハンギョル/Seo, Han-Gyeol(慶北大学修士課程)
14:30-15:30   ⑥ 念(sati:心を守ること)に基づく瞑想実習の授業プログラム開発のための予
                             備的考察
                                イ・ウンジョン/LEE, Eun-Jung(慶北大学博士課程単位修得)
                           ⑦ ニーチェ哲学の治癒の力とその限界
                                 ソ・ジュンヒョク/SEO, Jun-Hyuk(慶北大学博士課程)

16:00-17:30   DiscussionMOU締結

18:00-            懇親会(COデザインセンター4424号室)

2019年9月12日木曜日

イベント開催報告:ギャンブル等依存問題セミナーin大阪

 630日(日)に大阪大学豊中キャンパスにて、「ギャンブル等依存問題セミナーin大阪:パチンコ・パチスロに依存する人の多様な背景と支援について」(主催:NPO法人ワンデーポート、共催:大阪大学大学院文学研究科臨床哲学・倫理学研究室)を開催しました。
 報告はこちらよりご覧ください。





2019年9月9日月曜日

連載記事 教員対談 臨床哲学をあらためて問う 1

はじめに


1995年に倫理学研究者を中心に「臨床哲学」が提唱され、1998年には大阪大学大学院に「臨床哲学」が誕生しました。それから20年以上が経過し、激動の大学改革のなかで、研究分野としての「臨床哲学」のミッションがあらためて問われる時期にきています。これに関連して、これから数回に渡って教員による対談を発信していきます。


第1回臨床哲学研究室教員対談(2019年8月29日(木)堀江研究室にて)
対談者:堀江 剛・小西真理子
聞き手・編集:ほんま なほ


ほんま:わたしは1998年から2013年まで、専任教員として臨床哲学の活動に参与し、その後は兼任の立場でサポートしてきました。専任教員のお二人にお話をうかがうまえに、まず、臨床哲学をめぐるこれまでの経緯について、簡単に整理させていただきます。
 あまり知られていないかもしれませんが、臨床哲学が生まれた背景のひとつとして、かつて教授であった鷲田清一さん、中岡成文さんのお二人は、早くから大学院修了者のあたらしい働き方について考える必要がある、という認識をもっておられました。「臨床哲学士」の資格化というものも議論されていました。文部科学省も、いまさらながら、博士号保持者の社会での活躍を訴えていますが、当時としては、これは先見の明のある動きだったというべきでしょう。わたしの記憶違いでなければ、お二人は職のない若手哲学研究者の大量流出を早くから懸念され、1.医療・看護分野と協働する、生命倫理にかわる哲学者の仕事をみつけること、2.欧米・イスラエルなどでの哲学カウンセリングの動向をみならった、新しい哲学者の働きかたを探ること、の二つを検討されていました。
 その後、生命・応用倫理学については、他分野と競合するかたちで「研究者市場」が開拓されつつありますが、かねてから専門主義の問題点を強調してきた鷲田さんらの「臨床哲学」はこれに沿うものではありませんでした。また、お二人は哲学・倫理学だけでなく、人文学そのものの臨床的転回についてもさまざまに尽力されましたが、相変わらず、文学研究科での主流の研究は守旧化の傾向から抜け出せません。さらにこの20年間で、大学院教育ではより高度な専門性の育成と国際的競争力を求める圧力が強くなっています。研究を重視するにせよ、社会的実践を重視するにせよ、臨床哲学はミッションを新たにし、こうした状況に応えていく必要があるでしょう。これから数回にわたって、堀江さん、小西さんにお考えをきき、臨床哲学について再考し、それを発信する機会を設けたいと思います。


書き手の生に密着した研究


ほんま:小西さんは昨年度着任されたばかりですが、臨床哲学研究室にはどのような特徴や可能性があると感じていますか。

小西:私が今までしてきた研究には、その動機や前提として、誰かと話したり、興味がある場所に行ったりしたときに気づいたことや疑問に思ったことなどがあります。しかし、研究教育や議論の場において、あえてその部分が問われることはあまりありません。むしろ、それを押し出してしまうと、相当の技術がないとわけの分からないものになってしまうから、そこは封印したほうがいいなと考えてきました。でも、臨床哲学研究室は、私が封印したものに語りかけてきます。臨床哲学は、各々がもっている問いの前提となるものを問うたり、語ったり、考えたりすることを重要だと考えている、すごく貴重な場所だと思います。何か問題を考えているんだったら、どうしてこんな問題を考えているのか、そこに立ち戻りながら、自分の見つけた問題やテーマなどと向き合うことはとても大切なことだと思います。

ほんま:例えば20年前の議論では、哲学者や倫理学者はむしろ研究室から外に出るべきではなくて、徹底して資料とか書かれたものに定位して考えるべきだという意見がありました。もし学部生や院生が何かを考えたいと言ったとき、どんな風に指導されますか。

小西:私が求めるのは、資料や文献が原点となるような研究とは異なるものです。資料や文献にあたるまえに、経験を蓄積する時期のようなものがあると私は思います。その時期に日常的に人と関わったり、「現場」と言われるような場所に触れてみたりすることで問いや気づきが生まれてきます。そういう意味では臨床哲学研究室も私にとってはまさに「現場」です。さまざまな場所でのさまざまな経験をつうじて得ることのできる知見をもって、文献や資料にあたるのがよいと私は考えます。だから、問いや気づきのはじまりと向き合いながら、話し合ったり、資料や文献と格闘したりすることで問いに応えていく道筋を示すような教育ができればいいなと思います。さらに言えば、学生さんはこれまで生きてきた蓄積をすでにもって研究室にやってこられると思うので、そこに存在する問いが言語化できない場合にも、そこをいっしょに考えていければいいなと思います。

ほんま:文献との関わり方について、もう少しお聞きしていいですか?

小西:私は文献研究者のなかにも、文献や資料にあたるまえに何かについて違和感をもったり、憤りを感じたり、苦しみを感じたりして、そこからはじめている人は相当数いると思います。ただ、文献からはじめて文献のなかでとどまってしまうと、それが悪いとは言いきれないけれど、書き手の生と密着したようなものではないという意味で、私が求めるものではないなと思います。学生さんといっしょに考えたいのは、その人が今まで生きてきて、どういうことに疑問を感じたかとか、今どういうことが気になっているかというようなことを大切にしながら、その先で文献と相補的に考えていけるようなものです。

ほんま:それは小西さんご自身がこれまでたどってこられた道なのでしょうか。

小西:そうだと思います。そして、私が惹かれる傾向にある他の人の研究が、その人の生や思考に関わっていると感じられるようなものです。ただ、私自身に関して言えば、今は新しい経験の蓄積の時期だと思っています。今、現場での調査や当事者の方への聞き取りを行っているようなものや、新しく知ったものなどに関しては、すぐに形するっていうのは、なんか違うなって思っています。経験が蓄積されて、自分のなかに何か生まれるまで熟さないと、形にはなりません。研究として成立させるために文献にあたるのは、その後です。だから、新しいものに関わってそれが形になるっていうのは、すごく時間のかかることだと思います。

ほんま:すごく時間のかかることをやれる場である、ということですね。

小西:はい。調査や聞き取りは他の分野でもされているし、それも時間のかかることだと思います。しかし、それを哲学でやるということは、調査や聞き取りというものが何を意味するのか、そもそもそれは適切なことなのか、そこにどんな倫理的な問題が生じているのかなどがどの分野にも増して問われることだと思います。さらに、臨床哲学的な調査や聞き取りとなると、ひとつひとつのケースにおいて、そのつどそこに生じる関係性のなかで作り上げていくという特徴が顕著になってくるでしょう。だから、緩やかなものだとしても調査の方法論をもっている分野に比べると、さらに時間がかかるような気がします。しかし、時には行先が見えなかったり、足踏みしているように見えたりするけれど、そういったものに粘り強く同行しようとする文化が臨床哲学にはあると思います。


文献研究と臨床現場を結びつける


ほんま:堀江さんは臨床哲学にどのように取り組まれてこられましたか。

堀江:僕の場合、近代哲学の研究をやろうと思って、会社も辞めてそこに専念したっていうのがあります。しかし、同時に社会のなかで生きている自分っていうのもあるわけだから、それと哲学文献のつながりや、これをどうやって自分の生き方に生かせるかということを常に考えています。僕は誰でも哲学書に接すれば、そうなるだろうと思って、自分もその一人だと思って哲学の勉強をしてきました。臨床哲学研究室に院生として入って目が開かれたのは、自分個人の問題としてではなくて、医療者とか企業の経営者とか、いろんな職業をしている人と話すことで、自分自身が「これが哲学だ」と文献のなかで見つけてきたことと、実際の社会のなかでいろいろ考えている人たちとどこか接点や共通点をみつけたりできるのではないかと予感したことです。ある社会やある出来事を深く批判的に捉える視点と、実際に社会のなかで職業として活躍している人の視点とで、医療の現場の問題をどんなふうにいっしょに考えられるかっていうのを僕はやってきました。ソクラティク・ダイアローグもそうなんですが、今日でもそれをやっています。あるいは、いくつかの理論的な研究と臨床現場をつなぐような研究、例えば組織の研究をやっているというのが今の認識です。

ほんま:教育についてはいかがですか。やはり堀江さんと同じ道を勧められますか?

堀江:学生に対しては、時間がかかるかもしれないけれど、とりあえず文献研究から入ってもいいのではないかと思っています。文献研究一辺倒っていうけれど、大学生や修士の社会経験がない学生は、まずはそれでもいいんじゃないでしょうか。もうちょっとしたら、それを社会のなかでどう生かすかとかということを考え出すんじゃないでしょうか。だから、臨床哲学のなかに文献研究だけをやっていますという人がいてもいいんじゃないかと思っています。

ほんま:堀江さんのいう文献研究とは、哲学者の古典から、現代の倫理問題を扱ったものまで幅広いものをあつかう、ということですね。それだけでも時間と労力が必要だし、健康と経済力とチャンスに恵まれないと続けられませんよね。大学院5年間は短いと思うのですが。

堀江:どっちから入るかだと思います。文学研究科という場所として、文献から入るか自らの経験から入るか、両方開いておく必要があるんじゃないかなと思います。臨床哲学研究室ではその両方の人がいて、互いに交流・刺激し合えることができるような環境が重要だと考えています。教員としては、どうやってそうした環境を整えていくかが課題となってくると思います。大学院で学ぶ時間は、確かに限られています。しかし、その中で文献研究と自分の経験や問題とを結びつけるための視点、少なくともそうしたもののヒントが見つかればいいのではないかと思います。

ほんま:文献研究か否か、という二者択一ではなく、読み方や文献以外のものとの結び付け方が問題になる、ということですね。しかし阪大の他の研究室でも、他の大学でも、文献研究をメインにして、現代的な問題を論じるいう人は決して少なくありません。だとすると、臨床哲学でしかできないことを示してく必要もあります。引き続き、お二人にお話を伺っていきたいと思います。

(つづく)