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2023年5月30日火曜日

研究室紹介動画が公開されました

 Youtubeにて研究室紹介動画が公開されました。入試をご検討されている方、臨床哲学研究室の受験をお考えの方はぜひ参考になさってください。





2020年8月1日土曜日

教員

堀江 剛  教授

小西真理子 准教授

西村高宏 准教授

ほんま なほ 教授(兼任)

2020年3月2日月曜日

連載記事 教員対談 臨床哲学をあらためて問う 2

はじめに


1995年に倫理学研究者を中心に「臨床哲学」が提唱され、1998年には大阪大学大学院に「臨床哲学」が誕生しました。それから20年以上が経過し、激動の大学改革のなかで、研究分野としての「臨床哲学」のミッションがあらためて問われる時期にきています。これに関連して、これから数回に渡って教員による対談を発信していきます。

◆臨床哲学研究室・教員対談
第2回臨床哲学研究室教員対談(2019926日(木)堀江研究室にて)
対談者:堀江 剛・小西真理子
聞き手・編集:ほんま なほ

規範を外れる生と向きあう 

ほんま:臨床哲学をめぐる対談シリーズの第二回目ということで、引き続き、堀江さんと小西さんにお話を伺いたいと思います。前回は、研究と現場をどう結び付けるかというところのお話を聞きましたが、今回は具体的にどのように現場に関わって、どんなことを見てどんなことを考えたかということを話してもらえますか。小西さんは夏休みにドイツのベルリンに行かれたのですよね。

小西:はい、私がベルリンに行ったのは、BDSMの調査をするためでした。私が研究する共依存の問題を考えるにあたって、支配と服従にかんして「別の語り」を提示するBDSMは避けることのできないテーマです。今回はベルリンでBDSM研究をしている友人の日本帰国が迫っていたこともあり、ベルリンで本格的な調査ができるのはこの機会しかないと思って行ってきました。
(※BDSM: B&DBondage & Discipline:拘束と調教)、D&SDomination & Submission:支配と服従)、S&MSadism & Masochism:加虐症と被虐症)との複合語)

ほんま: 共依存研究がBDSMとどのようにつながっているのですか。

小西:共依存が語られるとき、避けて通れないのが支配や暴力をめぐる問題です。支配や暴力にかんしては、「こういう暴力は正しい暴力だ」ということはほとんど語られないと思います。しかし、BDSMの現場を訪れると、いかに暴力的・支配的な状況を生み出すか、他者を無力(helpless)な状態にするかということに価値が見出されていることが分かります。その価値を徹底的に追及することによって具現化された光景が、私の目の前に広がっていました。

ほんま:おっしゃっているのは、たとえば暴力はいけないとか、支配がとにかく悪だっていう規範があるけれど、その現場では、支配や暴力というものが、おそらくそういうふうに語られる枠組みとは全然違う仕方でなされている実践があって、そこに何か研究のヒントがあるのではないかということでしょうか。

小西:私も暴力や支配って聞くと、即座に拒否反応が出る傾向にあります。でも、BDSMについて語る友人の話を聴いていると、そこにいる人たちが、私が見えているのものとは全然違う世界に生きていることが徐々に伝わってくるようになったんです。加えて、共依存の問題でも、BDSMとつながっているとしか思えないような事態があって、共依存を論じるにあたってBDSMがないもののように語るのは大変不誠実だと考えるようにもなりました。

ほんま:このテーマにかんしてはこれから切り開いていかれるということだと思いますが、それは本を読んで考えるだけでは難しいんでしょうか。

小西:今回、ベルリンで調査する直前にも、BDSMに関する論文をいくつか読んだんですけれど、調査直後に同じ論文をもう一度読むと、そこから見えてくるものというか、伝わってくるものの臨場感がまったく異なるものになっていました。いろんな人が話していたことや、現場で見たことと文章がリンクするし、場合によっては両者の差異も明らかになります。今回お話しをうかがったSMスタジオの女王様は、SMを知って、それをとことん追求できる場所を作るという夢をもって、看護師という職から転職してまで夢を実現した方でした。創設者の一人の方とスタジオをめぐることで、こういう考えを持った人が作り上げた場所がこういう場所なんだっていうこともすごく伝わってきました。その場所は、彼女たちの思想が体現されている場所だったんです。

ほんま:小西さんが考えているのは、世の中で浸透している慣習的な倫理だけではなく、それから逸れている人たちのなかにもある種の倫理があるということだと思いますが、両者の関係はどうなっていますか。

小西:両者は違うものだと思いますが、一部重なっていますね。たとえばBDSMにおいて、慣習的な世界では暴力や支配はダメ、BDSMの世界ではそれが肯定的に捉えられるという点においては違います。しかし、BDSMの世界では、プレイする上での合意形成がとても重要なものであると語られます。場合によっては危険をともなうようなものもあって、それをいかに技術や感性、環境を整備することで安全に行うかということが詳細に検討されています。あと、否定語が言葉通りの意味をなさないので、危険や嫌悪を感じたときにプレイを中断するためのセイフワードがもうけられています。これらの試みにはかなり「正常」な規範が働いていると思います。でも、BDSM実践者のなかには、そういうものにおさまらない人たちもいて、そういう人たちは、実践者のなかでもより「異常」な領域を形成していくわけです。今回私がおとずれたスタジオは、すごく暴力的で支配的な場所だったけれど、そういった意味では「正常」さを体現した場所でもありました。

ほんま:意地悪な質問をすると、単にSMおもしろそうとかいう興味本位で研究者が出かけることと、そうではない研究とどう違うと思いますか。

小西:そこはすごく難しいところです。私みたいなSMクラブで働いた経験があるわけでもない人が突然訪れることを嫌がる人は多いと思います。実際に、博士論文を書いていた2013年にはこのテーマに興味を持っていたけれど、当時その場所に研究者として行くことにはとても抵抗がありました。そこから数年が経過して、問題について考えるなかで、一般的なSMに対する偏見というものがよく分からなくなってきたと感じるようになったとき、条件付きにはなるけれど、現場を訪ねてもいいかなと思うようになりました。ただ、これはすごく私の主観に依拠することなので難しいですね。今回は実践者の方や現場とのつながりをすでにもっている友人に同行してもらっていたことがとても大きかったです。インタビューするにあたっては自分の立場は明確に相手に伝えるべきだし、インタビュー最中に不快感をもたれていないかということは常に気を配らないといけないし、自分がそこにお邪魔させてもらっているという意識を手放してはいけないし、インタビュー前やインタビューの短時間において少しでも関係性を形成するということをすごく意識します。でも、それは最低限のことのように思います。

ほんま:臨床というと「苦しみの場所」とどうかかわるかというようなことが議論されてきたわけです。でも、今までの話を聞いていると、そういうお助けイメージではなくて、ひとつは「このことを考えざるを得なくなった」みたいな思考の必然みたいなものがあるということ、もうひとつは、別にSM愛好者を評価してあげたいとか、この人たちを社会から排除するものをなんとかしようとか、そういうところが動機になっていないところがおもしろいなと思いました。それをあえて臨床というものと結びつけるとしたら、それはどういうアプローチなんでしょうか。

小西:かわいそうな人を私が助けてあげるみたいな動機に対しては、できるだけ距離を置きたいと思っているんですけれど、人を助けたいっていう気持ちがまったくないわけではなくて、むしろ強くなるようなこともあります。それはきっと「こういう生き方ってないよね」みたいな発言を聞いたときにそういう気持ちになるんだと思います。規範と外れる生というものがあるとしたら、そこにはそこの規範や倫理があるのに、それを抹殺しようとしたり、攻撃したりするような言動に対しては、何かしたいという気持ちになります。


病院での看護を通して仕事を考える

ほんま:続いて堀江さんにお伺いしたいのですが、堀江さんにとって臨床的な場所ってどういうところですか。

堀江:これも偶然からですけれど、医療関係の特に病院という場所で仕事をしている様々な人と議論したり、一緒に考えたりする機会が多かったので、臨床といえば、いわゆる医療の現場が想定されています。でも、お医者さんとはあまり付き合いがなくて、看護師さんが多いです。病院の中のいろんな問題を考えるっていうのが、さしあたって僕にとっての「臨床」です。ただし、ここで僕自身が大学院生になる前にサラリーマンを経験したというのが大きくて、どこかの組織で仕事をしているということを「臨床」だと受け取っているのだと思います。

ほんま:それがたまたま看護職だったということですか。

堀江:そうです。臨床哲学研究室に私が大学院生として入ったときに、本当にたまたま看護師さんが多くて、そういう人たちと話し合う、聴く、自分の考えを述べるということを繰り返したなかで、考えることが多かったということです。私は「仕事」という視点で、看護師の人たちが考えていることに反応して刺激を受けているのだと思います。たとえば、ある看護師さんが日々の病棟の看護で何を考えてやっているかという話になったとき、基本的にはいかに時間を管理して多くの患者さんへのケアや、その他にもやらなければならないことをやっているのか、どうやって上手く患者さんとの話をきり上げて次の仕事にいくかっていうのを考えながら仕事しています。これは看護の仕事という意味で、病院でたくさんの人をケアしているなかで、もっとも重要な発想なんだろうなと思いました。同時にだからといって、その看護師さんはすごくドライに患者さんを処理するように対応しているわけではなく、自分のモチベーションや自分の看護観っていうものを、日々の仕事の中でやっていきたいという価値観も持っています。それを実際とどう折り合いをつけて自分で組み立てているのかということ、この全体が看護という仕事なんだなと思いました。そこをいっしょに考えて、こんなふうにも考えることができるんじゃないかとか、こういう視点で見たら看護の仕事として哲学とつながるんじゃないのか、といった話ができるように思えて、楽しかったですね。

ほんま:それは看護研究だったら論文とかに結実するんですけれど、堀江さんのそういう関わりっていうものは誰にどういうものを与えるんですか。

堀江:単純なことは言えないんですが、多面的にはいろんなことができると感じます。ひとつは、その看護師さんたちといっしょに論文や実践報告を書いて研究成果として発表することができると思います。でも、それだけではなくて、実際に研修に僕が関わってお互いにアイディアを出し合う場を作ったことによって、少なくてもこれまでの看護の研修とか、何かスキルを磨くだけのものとは違う視点を得たという感想を聞くと嬉しいなと思います。その他には、患者さんやその家族も含めて、お互いに違う人たちをまぜて対話する場所を私が研究者として作ると、それぞれの立場からの新しい視点やヒントが見つかるというのがあります。

ほんま:私も精神科看護やがんの緩和ケアとかに関わっていて、私の場合は、どちらかというと患者さんと間接的に関わっているような感じがします。でも、堀江さんの話を聞いていると全然そうじゃなくって、病気とかではなくて看護師の働きというところに関与しようとしているところがおもしろかったんですけれど、それってどういう関心なんですか。患者さんが誰かということとは独立して、病院の働きというところを見ているんですか。

堀江:やはりサラリーマンの経験が大きいですね。大学を卒業して「仕事をする」ってどういうことなんだろうっていうのがあって、メーカーに入って働いたということが、僕の臨床哲学の原体験なのかもしれないです。僕自身はそれをサラリーマンやりながらはできませんでした。だから、臨床哲学に入って仕事の臨床っていうのをずっと考えていたんだと思います。

ほんま:堀江さんはもともとスピノザをやっていたわけですよね。今の話を聞いていても、全然善悪とは関係ないっていうところがおもしろいなって思いました。善悪とは関係ない、仕事という現場での人のやりくりしている生きざまに関心をもたれていると思うんですけど、善悪がないっていうことをポジティブに言いかえるとしたらそれはどういうふうになりますか。

堀江:僕が倫理学を考えるうえで、自分のなかでこれかなって思うのは、善悪は別にしてやらなければならないことがある、ということです。善悪は別にして、例えばマルクスが考えるように、こんな経済的な必然性が社会のなかには貫徹しているんだとか。要するに、現実的な社会関係の中で私たちが活動せざるをえないような場面があって、倫理というものはその上に乗っかっているだけのようなものだという信念があるような気がします。組織を考えると、実は組織のなかにある目標とか価値によって組織が動くっていうのはあるし、それに自ら人生そのものを投じるということもあります。だから善悪は必要ないっていうのではなく、何らかの形で善悪と別のところにある関係から、皮肉な形か積極的な形かで善悪というものが生じてくるのだと思っています。善悪というものがあるという立場からは距離を置いて考えたいです。

ほんま:今までご自身が働いてこられた延長線上に看護師さんたちの仕事があったんですね。自分の問題を、看護師さんを通して考えているんですか。

堀江:自分の問題かもしれません。学生とか若い時期にかけて、大学生のときに就職するか、大学院に進むかということとか、あるいは周りにいた左翼の活動家の友達とかと話していて、自分の活動が社会のなかで自分の選択としてどうできるんだろうかということを考えたときがありました。それ以来、自分は仕事をするけれど、仕事として割り切ってすると同時に、自分のやりたい趣味もする。そういう「切り分け」が仕事なのかって感じたのが最初なのかもしれません。それを誰もがやっているだろうということから、人は仕事ということで何を考え、他の人と関わりながら、他の人に合わせながら、他の人の命令に従いながら、何とか自分をやりくりしているというようなところを含めて、仕事と社会というものにずっと関心があったということです。

ほんま:最後にお二人に聞きたいのですが、お話しいただいたもののなかで、学生に伝授できるところがあるとしたら、何だと思いますか。

小西:まず、自分がそもそもなんでこんな問題を考えているんだろうっていう、自分のテーマと自分のつながりについては考えた方がいいと思います。当事者研究も含めて、研究全体のあらゆる当事者性と研究者自身が一致することはあり得ません。他者が単なる研究材料になりかねない危険と隣り合わせで、だからこそ、明記するかどうかは別にして、自分と他者たちとの関連性はしっかりと見なければならないと思います。もう一つは、何かを実行できる機会やチャンスというものは、いつでも存在するわけではないということです。今しかできないこともあるので、慎重さが求められると言ったことに対して逆説的なんですけれど、そういうときは、とにかく実行するということも重要だと思います。

ほんま:好きなだけ時間をかけれるわけではないということ、そして、たじろがないで現場に行くっていうことにすでに責任が伴うわけですね。それは人の生に関わるということなんだと思うんですけど、学問とか研究とかが人の生に関わるっていうのはどういうことなんだろうかってそこは私も考えたいところです。堀江さんはどうですか。

堀江:今の生に関わるというところでいえば、自分が考えたいなとか違和感があるなって思ったことは絶対手放すなということを学生には言いたいです。研究を続けようが、どこにいようが、自分がぜひこれははっきりさせたいなと思っていることは、2030年手放さないで自分の生に関わりながらやっていくのが、臨床哲学を考えることになるのではないでしょうか。長い目での自分の生き方とか考えたいことを手放さないことが、臨床と哲学を結ぶ一番の肝だろうと感じます。

ほんま:堀江さんも小西さんもそうでしたけれど、自分自身が一回社会に出て、大学院で勉強しなおすみたいなルートがこれからますます大事になってくると思うんですよね。堀江さんのようなお仕事っていうのは、社会人院生にとって長期的に必要なことなんでしょうね。ライフワークというか、その人の生に関わりつつ、それを考え続けるという機会を臨床哲学は提供してくれるかもしれないということですね。

堀江:ぜひ提供したいですね。

付記

諸事情により、この対談のブログ掲載がたいへん遅れてしまいました。
臨床哲学教員による対談は、今回の掲載をもって、一旦終了とします。

2019年9月9日月曜日

連載記事 教員対談 臨床哲学をあらためて問う 1

はじめに


1995年に倫理学研究者を中心に「臨床哲学」が提唱され、1998年には大阪大学大学院に「臨床哲学」が誕生しました。それから20年以上が経過し、激動の大学改革のなかで、研究分野としての「臨床哲学」のミッションがあらためて問われる時期にきています。これに関連して、これから数回に渡って教員による対談を発信していきます。


第1回臨床哲学研究室教員対談(2019年8月29日(木)堀江研究室にて)
対談者:堀江 剛・小西真理子
聞き手・編集:ほんま なほ


ほんま:わたしは1998年から2013年まで、専任教員として臨床哲学の活動に参与し、その後は兼任の立場でサポートしてきました。専任教員のお二人にお話をうかがうまえに、まず、臨床哲学をめぐるこれまでの経緯について、簡単に整理させていただきます。
 あまり知られていないかもしれませんが、臨床哲学が生まれた背景のひとつとして、かつて教授であった鷲田清一さん、中岡成文さんのお二人は、早くから大学院修了者のあたらしい働き方について考える必要がある、という認識をもっておられました。「臨床哲学士」の資格化というものも議論されていました。文部科学省も、いまさらながら、博士号保持者の社会での活躍を訴えていますが、当時としては、これは先見の明のある動きだったというべきでしょう。わたしの記憶違いでなければ、お二人は職のない若手哲学研究者の大量流出を早くから懸念され、1.医療・看護分野と協働する、生命倫理にかわる哲学者の仕事をみつけること、2.欧米・イスラエルなどでの哲学カウンセリングの動向をみならった、新しい哲学者の働きかたを探ること、の二つを検討されていました。
 その後、生命・応用倫理学については、他分野と競合するかたちで「研究者市場」が開拓されつつありますが、かねてから専門主義の問題点を強調してきた鷲田さんらの「臨床哲学」はこれに沿うものではありませんでした。また、お二人は哲学・倫理学だけでなく、人文学そのものの臨床的転回についてもさまざまに尽力されましたが、相変わらず、文学研究科での主流の研究は守旧化の傾向から抜け出せません。さらにこの20年間で、大学院教育ではより高度な専門性の育成と国際的競争力を求める圧力が強くなっています。研究を重視するにせよ、社会的実践を重視するにせよ、臨床哲学はミッションを新たにし、こうした状況に応えていく必要があるでしょう。これから数回にわたって、堀江さん、小西さんにお考えをきき、臨床哲学について再考し、それを発信する機会を設けたいと思います。


書き手の生に密着した研究


ほんま:小西さんは昨年度着任されたばかりですが、臨床哲学研究室にはどのような特徴や可能性があると感じていますか。

小西:私が今までしてきた研究には、その動機や前提として、誰かと話したり、興味がある場所に行ったりしたときに気づいたことや疑問に思ったことなどがあります。しかし、研究教育や議論の場において、あえてその部分が問われることはあまりありません。むしろ、それを押し出してしまうと、相当の技術がないとわけの分からないものになってしまうから、そこは封印したほうがいいなと考えてきました。でも、臨床哲学研究室は、私が封印したものに語りかけてきます。臨床哲学は、各々がもっている問いの前提となるものを問うたり、語ったり、考えたりすることを重要だと考えている、すごく貴重な場所だと思います。何か問題を考えているんだったら、どうしてこんな問題を考えているのか、そこに立ち戻りながら、自分の見つけた問題やテーマなどと向き合うことはとても大切なことだと思います。

ほんま:例えば20年前の議論では、哲学者や倫理学者はむしろ研究室から外に出るべきではなくて、徹底して資料とか書かれたものに定位して考えるべきだという意見がありました。もし学部生や院生が何かを考えたいと言ったとき、どんな風に指導されますか。

小西:私が求めるのは、資料や文献が原点となるような研究とは異なるものです。資料や文献にあたるまえに、経験を蓄積する時期のようなものがあると私は思います。その時期に日常的に人と関わったり、「現場」と言われるような場所に触れてみたりすることで問いや気づきが生まれてきます。そういう意味では臨床哲学研究室も私にとってはまさに「現場」です。さまざまな場所でのさまざまな経験をつうじて得ることのできる知見をもって、文献や資料にあたるのがよいと私は考えます。だから、問いや気づきのはじまりと向き合いながら、話し合ったり、資料や文献と格闘したりすることで問いに応えていく道筋を示すような教育ができればいいなと思います。さらに言えば、学生さんはこれまで生きてきた蓄積をすでにもって研究室にやってこられると思うので、そこに存在する問いが言語化できない場合にも、そこをいっしょに考えていければいいなと思います。

ほんま:文献との関わり方について、もう少しお聞きしていいですか?

小西:私は文献研究者のなかにも、文献や資料にあたるまえに何かについて違和感をもったり、憤りを感じたり、苦しみを感じたりして、そこからはじめている人は相当数いると思います。ただ、文献からはじめて文献のなかでとどまってしまうと、それが悪いとは言いきれないけれど、書き手の生と密着したようなものではないという意味で、私が求めるものではないなと思います。学生さんといっしょに考えたいのは、その人が今まで生きてきて、どういうことに疑問を感じたかとか、今どういうことが気になっているかというようなことを大切にしながら、その先で文献と相補的に考えていけるようなものです。

ほんま:それは小西さんご自身がこれまでたどってこられた道なのでしょうか。

小西:そうだと思います。そして、私が惹かれる傾向にある他の人の研究が、その人の生や思考に関わっていると感じられるようなものです。ただ、私自身に関して言えば、今は新しい経験の蓄積の時期だと思っています。今、現場での調査や当事者の方への聞き取りを行っているようなものや、新しく知ったものなどに関しては、すぐに形するっていうのは、なんか違うなって思っています。経験が蓄積されて、自分のなかに何か生まれるまで熟さないと、形にはなりません。研究として成立させるために文献にあたるのは、その後です。だから、新しいものに関わってそれが形になるっていうのは、すごく時間のかかることだと思います。

ほんま:すごく時間のかかることをやれる場である、ということですね。

小西:はい。調査や聞き取りは他の分野でもされているし、それも時間のかかることだと思います。しかし、それを哲学でやるということは、調査や聞き取りというものが何を意味するのか、そもそもそれは適切なことなのか、そこにどんな倫理的な問題が生じているのかなどがどの分野にも増して問われることだと思います。さらに、臨床哲学的な調査や聞き取りとなると、ひとつひとつのケースにおいて、そのつどそこに生じる関係性のなかで作り上げていくという特徴が顕著になってくるでしょう。だから、緩やかなものだとしても調査の方法論をもっている分野に比べると、さらに時間がかかるような気がします。しかし、時には行先が見えなかったり、足踏みしているように見えたりするけれど、そういったものに粘り強く同行しようとする文化が臨床哲学にはあると思います。


文献研究と臨床現場を結びつける


ほんま:堀江さんは臨床哲学にどのように取り組まれてこられましたか。

堀江:僕の場合、近代哲学の研究をやろうと思って、会社も辞めてそこに専念したっていうのがあります。しかし、同時に社会のなかで生きている自分っていうのもあるわけだから、それと哲学文献のつながりや、これをどうやって自分の生き方に生かせるかということを常に考えています。僕は誰でも哲学書に接すれば、そうなるだろうと思って、自分もその一人だと思って哲学の勉強をしてきました。臨床哲学研究室に院生として入って目が開かれたのは、自分個人の問題としてではなくて、医療者とか企業の経営者とか、いろんな職業をしている人と話すことで、自分自身が「これが哲学だ」と文献のなかで見つけてきたことと、実際の社会のなかでいろいろ考えている人たちとどこか接点や共通点をみつけたりできるのではないかと予感したことです。ある社会やある出来事を深く批判的に捉える視点と、実際に社会のなかで職業として活躍している人の視点とで、医療の現場の問題をどんなふうにいっしょに考えられるかっていうのを僕はやってきました。ソクラティク・ダイアローグもそうなんですが、今日でもそれをやっています。あるいは、いくつかの理論的な研究と臨床現場をつなぐような研究、例えば組織の研究をやっているというのが今の認識です。

ほんま:教育についてはいかがですか。やはり堀江さんと同じ道を勧められますか?

堀江:学生に対しては、時間がかかるかもしれないけれど、とりあえず文献研究から入ってもいいのではないかと思っています。文献研究一辺倒っていうけれど、大学生や修士の社会経験がない学生は、まずはそれでもいいんじゃないでしょうか。もうちょっとしたら、それを社会のなかでどう生かすかとかということを考え出すんじゃないでしょうか。だから、臨床哲学のなかに文献研究だけをやっていますという人がいてもいいんじゃないかと思っています。

ほんま:堀江さんのいう文献研究とは、哲学者の古典から、現代の倫理問題を扱ったものまで幅広いものをあつかう、ということですね。それだけでも時間と労力が必要だし、健康と経済力とチャンスに恵まれないと続けられませんよね。大学院5年間は短いと思うのですが。

堀江:どっちから入るかだと思います。文学研究科という場所として、文献から入るか自らの経験から入るか、両方開いておく必要があるんじゃないかなと思います。臨床哲学研究室ではその両方の人がいて、互いに交流・刺激し合えることができるような環境が重要だと考えています。教員としては、どうやってそうした環境を整えていくかが課題となってくると思います。大学院で学ぶ時間は、確かに限られています。しかし、その中で文献研究と自分の経験や問題とを結びつけるための視点、少なくともそうしたもののヒントが見つかればいいのではないかと思います。

ほんま:文献研究か否か、という二者択一ではなく、読み方や文献以外のものとの結び付け方が問題になる、ということですね。しかし阪大の他の研究室でも、他の大学でも、文献研究をメインにして、現代的な問題を論じるいう人は決して少なくありません。だとすると、臨床哲学でしかできないことを示してく必要もあります。引き続き、お二人にお話を伺っていきたいと思います。

(つづく)

2018年6月6日水曜日

【教員紹介】小西真理子 准教授

個人の依存的な症状あるいは依存的な関係性である「共依存」の研究からはじめ、現代社会における病理的な関係性、依存症、家族問題などについて研究してきました。倫理学理論としては、「ケアの倫理」を専門としています。現代社会の具体的な問題をケアの倫理の視点から考察することで、今まで見逃されてきた/否定されてきた「倫理/人間の生き様」を明らかにすることが私の研究スタイルです。

日常を過ごすなかで、(他者や自己の)言葉にならない「苦しみ」や「想い」に出会うことがあると思います。倫理学・臨床哲学の営みは、それに一定の言葉を与え、「この苦しみ/想いは一体何なのか」「それはどのようなことを訴えているのか」「何が必要とされているのか」などに対する答えの一つを、これまでとは別の仕方で導く手助けをしてくれます。「言葉なき声」に耳を傾け、それをあえて学術的に言語化することでこそ見えてくるものについて考えていきたいです。

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【主な業績】
◆著書:単著
・『共依存の倫理――必要とされることを渇望する人びと』晃洋書房、2017

◆著書:共著
Mariko KONISHI, “Regards croisés entre l’éthique du care et le concept japonais d’Amae,” Bourgault, S. & Perreault, J. (eds.), Le Care: Éthique Feministe Actuelle, Remue-Ménage, pp.261-273, 2015.
・小西真理子「共依存――依存的な関係性を考える(知のアート・シリーズ)」立命館大学生存学研究センター(監修)、渡辺克典(編)『知のフロンティア――生存をめぐる研究の現場』、pp.46-47、ハーベスト社、2017

◆論文
・「共依存と病理性――アルコホリックの妻を追う」、『生存学』、生活書院、vol.5pp.151-1652012
・“What is Enabling: A Study of Support Groups of the Tohoku Earthquake”『立命館言語文化研究』、立命館大学国際言語文化研究所、vol.24-4pp.73-862013
・「自己紹介に嗜癖する――ギデンズ、フーコーを手掛かりに」、『アディクションと家族』、日本嗜癖行動学会、vol.29-2pp.149-1562013
・「『共依存』再考――フェミニズムによる批判の検討」、『倫理学研究』、関西倫理学会、vol.45pp.123-1332015
・「ケアの倫理に内在する自立主義――相互依存・依存・共依存の検討を通じて――」、『倫理学年報』、日本倫理学会、vol.65pp.265-2782016年(第十回社会倫理研究奨励賞 審査員賞受賞)
・「DVにおける分離政策のオルタナティヴのために――リンダ・ミルズおよび修復的正義の視点――」『生存学研究センター報告24:〈抵抗〉としてのフェミニズム』、生活書院、pp.88-1042016
・「ケアの倫理における心理的なケア/依存――病理との関係をめぐって」、『倫理学年報』日本倫理学会、vol.67pp.72-752018

◆翻訳
・キャロル・ギリガン著、小西真理子訳「道徳の方向性と道徳的な発達」、『生存学』生活書院、vol.7pp. 229-2442014
・ローズマリー・ラーナー著、小西真理子訳「文化的、イデオロギー的な遭遇と衝突の状況についての現象学的考察」、谷徹編『間文化性の哲学』、文理閣、pp.162-2092014

◆解題
・「【解題】キャロル・ギリガン」、『生存学』、生活書院、vol.7pp. 245-2512014

◆所属学会
日本倫理学会、関西倫理学会、生命倫理学会、日本嗜癖行動学会

Researchmap ⇒ ( https://researchmap.jp/marikokonishi/ )